菅原道真公といえば天神さんで親しまれる学問の神様です。しかしその生い立ちを見れば順風満帆の人生とは言い難い晩年を過ごしています。また、天神さんが学問の神様として崇められるようになったのは江戸時代からのようです。
晩年は策略にはまり太宰府に左遷され、その地で生涯を終えています。濡れ衣を着せられたまま、怒りと悲しみのまま身罷ったそうです。
結論から言えば菅原道真は幼少の時から学問が優秀だったから学問の神として崇められたのでしょう。
道真は梅をこよなく愛でていたので飛梅という話が伝わり、今でも北野天満宮の梅園は人気を博しています。
北野天満宮と太宰府天満宮の関係は、その由来が独立していますので、菅原道真公を祀っていることのほかに特に上下関係は関係はなく並立している存在かと存じます。
学問の神菅原道真公
菅原道真は、平安時代の貴族で政治家です。 子供の頃からとても頭がよく、天皇の信頼を得て異例の早さで出世しました。
幼少期から和歌や漢歌の才能を開花させ、その後も学問に邁進しながら数々の和歌を残しています。そして、わずか18歳で官僚養成機関の大学寮(今の大学院のようなもの)で紀伝(きでん)という学問(歴史と文学)を学ぶ文章生(もんじょうしょう)(学生)になったことや、異例の若さの26歳で、日本最高の国家試験「方略試(ほうりゃくし)」に受っておりとても優秀でした。
菅原道真は若いときから学者や役人としての力を発揮し、右大臣(政治の最高機関の太政官の閣僚で、政務を統轄する職)になりました。この辺りから後世に学問の神と称されるようになったのでしょう。
北野天満宮の広大な境内のあちこちには、大小様々な牛の像が10数体置かれています。 これは祭神である菅原道真(天神様)が、丑歳の生まれで、牛は天神様のお使いと言われることが由来とされています。
飛梅伝説
菅原道真が子どもの頃から梅が好きだったからだと言われ、 自宅周辺にもたくさんの梅の木を植えていたそうです。
怨霊伝説
北野天満宮
その後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死した。さらには清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出ました。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行います。清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられました。
道真が亡くなった太宰府には先に醍醐天皇の勅命により藤原仲平によって建立された安楽寺廟、のちの太宰府天満宮で崇奉された。また、949年に、勅命により大阪天満宮(天満天神)が建立されました。
元々京都の北野の地には平安京の西北・天門の鎮めとして火雷神という地主神が祀られています。朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとしました。そして、987年に一条天皇により「北野天満宮天神」の勅号が下されます。
『日蔵夢記(道賢上人冥途記)』によると、怨霊神となった道真は「火雷天神とは、眷属の鬼神のことだ。自分は、三十三天に日本太政威徳天とよばれている」、また、宿世の功徳ゆえ、愛別離苦(妻子との別れ)の悲しみゆえ、太政天となったと語っています。
天神様は、天満大自在天神、日本太政威徳天などとも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられる存在だったのですが、災いを起こしているのは眷属の神がしていることだと言っています。
太宰府天満宮
菅原道真は失意のうちに903年太宰府で死去します。道真の遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、そこに廟を建立し天原山庿院安楽寺と号したといいます。
都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに909年には道真を陥れた藤原時平が39歳で死去します。これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣が大宰府に下向し、道真の墓所の上に社殿を造営し、919年に竣工し、これが安楽寺天満宮の創祀になります。
それでも「道真の祟り」は収まらず、923年には皇太子保明親王が21歳で死去した為、道真の官位を生前の右大臣の官職に復し、正二位の位階を追贈しました。
しかしそれでも「祟り」が沈静化することはなく、保明の遺児慶頼王が皇太子となったものの、925年に慶頼もわずか5歳で死去した。
そしてついに930年6月、醍醐天皇臨席のもとで会議が開かれていた、まさにその瞬間、清涼殿落雷事件が起こります。天皇は助かりましたが、この事により床に伏せ、朱雀天皇に譲位し、直後に死去するに至った。道真を側近中の側近として登用しながら、醍醐と時平の陰謀から道真の失脚を防げなかった宇多法皇も死去しています。
わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が死亡したことになる。猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、道真には太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、道真への御霊信仰は頂点に達します。
ついに990年頃からは本来は天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った。986年に道真の曾孫菅原輔正によって鬼すべ神事が始められるようになりました。
1004年一条天皇が初めて北野天満宮へ行幸されて、太宰府へも勅使をつかわせて以来、士庶の崇敬を広く集め、1097年大江匡房が太宰権帥に任ぜられてからは神幸祭など、祭祀が厳かになったといいます。
天神様の功徳
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