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空海求法伝「曼陀羅の人」(下)陳舜臣著は理趣経の解説ですか?

書籍
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本棚を見て驚いたのは、陳舜臣氏の本が数冊並んでいた事です。

20年ほど前に買い溜めた本ですが、まっさらです。

その中に、空海求法伝「曼陀羅の人(上)、(下)が有りました。

 

弘法大師空海に関する専門家の難解な本はたくさん出版されています。

一番読みやすかったのが、「眠れないほど面白い空海の生涯」王様文庫でした。

 

早速、空海求法伝「曼陀羅の人」(上)、(下)を読んでみました。

これは理趣教の教えについての、筋の通った筋立てで書かれているのではと思います。

また、作中で、空海が唐に滞在中の話や恵果阿闍梨との邂逅がとても新鮮でした。

空海求法伝「曼陀羅の人」(下)は理趣経の解説?

空海は入唐して、すぐさま梵文を学ぶために南天波羅門を訪ねます。

南天波羅門は空海に不空菩薩が訳した「理趣経」の話を持ち出します。

理趣経は17の清浄句に分けて、それぞれが菩薩の心のあらわれであると説いています。

凡人にはよくわかりませんが、密教の大楽思想を説いたものらしいです。

誤解を恐れずにいえば、男女の営みの悦楽は菩薩の心であるでしょうか?

 

しかし、常人が考える如くの浅はかな意味では断じて無いそうです。

経文を拝借して体得できる境地の悟りでは無いと言います。

 

古事記では、伊弉諾と伊邪那美との営みで神を産み国を産んだのです。

その営み自体は神聖なものです。

ですが手順を間違えて生まれたヒルコ神は数に入れず、と流されてしまいました。

 

空海と最澄の不仲を決定付けたのが「理趣経」関連の出来事でした。

空海は体得しなければ意味がないと、最澄に「理趣経」を貸さなかったのです。

特に有名なのは、最澄の理趣釈経借経(経典を借りる)事件である。日本天台宗の開祖である最澄は、当時はまだ無名で若輩の空海に辞を低くして弟子入りし、弘仁3年(812年)11月から12月に密教の伝授を受け、灌頂も受けた。最澄と空海の仲は当初非常によく、二人の間にやり取りした手紙は現在23通現存している。しかし、最澄は天台教学の確立を目指し繁忙だったという理由で、空海から借経を幾度となく繰り返していた。空海は快く応じていたが、弘仁4年(813年)11月23日、この『理趣経』の解説本である、不空の『理趣釈経』を借りようとして空海から遂に丁重に断られた。これは、修法の会得をしようとせず、経典を写して文字の表面上だけで密教を理解しようとする最澄に対して諌めたもので、空海は密教では経典だけではなく修行法や面授口伝を尊ぶこと、最澄が著書で不空の法は自分の奉じている『法華経』より劣ると密教をけなしたこと、面授や修行なしにこの経文を理解することは師匠も弟子も無益で地獄に落ちる振る舞いであることを理由に借経を断ったという。俗に、この『理趣経』の十七清浄句が、男女の性交そのものが成仏への道であるなど間違った解釈がなされるのを懼れたためといわれている。

ウキペディア/理趣経より引用

青龍寺の真言七祖恵果阿闍梨

恵果阿闍梨と空海の邂逅は奇跡的なものでした。

空海が入唐する時期と、恵果阿闍梨の寿命とが合致しないと実現していませんでした。

恵果は己が体得している密教の奥義を、余すところなく伝授できたのです。

 

空海は日本での修行で九分九厘のところまで、密教を納めていたらしいのです。

最後の伝法阿闍梨位の勧請認可を恵果から授けてもらうことが残っていたのです。

 

全ての伝授が終わったのちに、空海は早く日本に帰れと言われます。

そして恵果は「次は私が貴方の国に生まれ変わるから…」と、予言の言葉を言います。

空海が真言八祖になり、大日如来から始まる密教を日本に持ち帰るのです。

恵果阿闍梨と理趣経

空海求法伝「曼陀羅の人」(下)のテーマは理趣経に尽きると思うのです。

全ての勧請が終わり、恵果は空海に故里を尋ね一人の女人に会うように依頼します。

 

その女性こそ恵果が慕う隣人の妻であり、恵果が出家する基となった女性でした。

出家してからは一度も会っていません、また生きて会うこともないでしょう。

そんな二人のやり取りを通して、空海に理趣経の一面を示そうとしたと思われます。

 

お互いに離れて会えなくても、心で慕って愛しんでいる。

世の理不尽を超越した世界が密教で開かれる、という恵果最後の教えでしょう。

まとめ

空海は、日本に帰ってきたものの太宰府に足止めを喰らい悶々とした数年を過ごします。

京都に帰ってからもライバル最澄との関係、南都六宗との関係で心を砕きます。

最高の教義ゆえに、膝を屈し頭を下げ他の宗派に接していかないといけないのです。

 

日本の仏教界において、最澄は母的な働きをし、空海は父的な働きをしていると言います。

後世、仏教界の偉人は比叡山を経て、高野山に登り道を成就していく軌跡を表しているのを見れば、然もありなんと納得します。