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弘法大師空海は独身のはず、妻帯説のこの一冊は空海理解の起爆剤だ!

書籍
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弘法大師空海の逸話は全国各地至る所にあります。代表的なのが四国八十八ヶ所のお寺であります。また、満濃池の灌漑事業、三筆と謳われる書の天才です。しかし、資料が残っていないので、若き空海の道程を知る人はいません。

弘法大師空海に子孫がいるのか居ないのか、基本的には独身で妻帯していないはずです。しかし、若き修行時代の沙門空海の時にはどうなのでしょうか?当時の生活慣習で、地方に私度僧をもてなす習慣があったとしたら、どうなのでしょうかか?

由良弥生著の「空海の生涯」

そこで、隙間を埋めてくれるのが、由良弥生著の「空海の生涯」です。空海の人生にある女性を登場させることで、空海の人生を華やかに彩りました。これにより肩苦しい仏教者のイメージからより近しい人物像になっています。

この本がなぜ良いのかと言えば、読みやすいことです。加えて、これまでの断片的だった空海への知識が連続してつながるのです。もちろん小説ですので、作者の自由闊達な創作の賜物なのでしょう。

しかし、空海の文学作品を理解する上でも、優しく導いてくれます。仏教関係者が書いた本だとどうしても堅苦しいのです。

「三教指帰(さんごうしいき)」

例えば空海最初の著作「三教指帰(さんごうしいき)」の解説も軽快です。専門書のように注釈ばかりで何を言っているのか分からない物ではありません。作者の解釈をサラリと書いてあり、とてもわかりやすいのです。

要するに、仏教が優れていると道教や儒教を論破しているんですね。あまりにも軽快なので仏教の専門家からすると不遜であると思うかもしれません。仏教者が有り難く持って回って説いていることを、ズバッと明快に書いてあります。

ある学者は「空海が仏法に生命の本義を求め、、希求する事を高らかに謳い挙げた決意の書」専門家が描く弘法大師空海伝は悟りの境地への誘いに重きを置いているようです。

読者には相当量の知識を要求し、言葉に立たないことを言葉で説明するのです。禅宗では「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」とか言いますよね。全くもってなんのこっちゃです。

 

夢枕獏先生の「陰陽師」という作品のノリで読めます。陰陽師は安倍晴明を主人公にした宮廷の物語です。平安時代の邪気、悪鬼、邪神等々を退魔する物語です。

「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」

夢枕獏先生も沙門空海を主人公にした御本を書いています。「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」の本から空海の人生を知ることも出来ます。仏法の呪術者としての物語ですが、史実に則っての場面では、やはり文体が硬いです。とても面白いのですが、弘法大師空海の足跡を扱うものとしては相応しくないですね。

伝教大師最澄との対立

同時代に生きた最澄と空海は仏教界ではスーパースターの両雄です。両雄は並び立たないのでしょうか?元々エリート僧の最澄、かたや田舎豪族の私渡僧出身です。

空海は慧能禅師より真言八祖の認可を受け密教を託された天才です。しかし、朝廷内においての信頼度は最澄が優っています。空海が最澄の地位まで上り詰めるのは、並大抵のことではありません。また、真言密教を流布するために色々と苦労をしています。

伝教大師最澄は七六六年あるいは七六七年に、現在の滋賀県の坂本にある生源寺(しょうげんじ)のあたりにお生まれになったと伝えられています。お父様の百枝(ももえ)はその地域をおさめていた三津首(みつのおびと)という一族の方で、お母様は藤子(とうし)と言われています。後継ぎにめぐまれなかったお二人が比叡山の神に願いを込めてお参りしたところ、ようやく最澄を授かることができました。

最澄は幼い時、「広野(ひろの)」という名前でした。広野さまは幼いころからとても優秀で、さまざまな勉学にはげんでいましたが、神仏への信仰の深いご両親の影響で、十三歳くらいの時に僧侶となる道を選んだのです。そして、近江国の国分寺(こくぶんじ)に入門し、近江国師(こくし)の行表(ぎょうひょう)法師の弟子となり、「最澄(さいちょう)」という名前をいただきました。

エリート僧の最澄についてですが、なぜエリートだったのか?長年不思議に思っていましたが、高貴な家柄だったからではないでしょうか?もちろん天才的に賢い人でありますが、先祖が凄いのです。

先祖は後漢の孝献帝(こうけんてい)(AD190~220)の子孫登万貴王(とうまんきおう)と伝え、応神(おうじん)天皇(AD270~310)の頃、日本に帰化して近江国滋賀の地を賜り、三津首(みつのおびと)の姓を頂かれたと伝えています。

最澄の性格や人柄 最澄は、真摯で理知的な人物であり、仏教の教えを深く追求する誠実さが際立っていました。 彼は比叡山に延暦寺を開き、日本における仏教教育の基盤を築きましたが、その一方で純粋さゆえに現実的な運営や弟子たちの管理には苦労し、空海との絶縁のきっかけとなる自分の弟子が去ることに対して深い悲しみを感じました。

理趣教

最澄が理趣教を貸してと懇願したのが、不仲の始まりとなります。空海は「理趣教は体得しないと意味がない」と、貸さないと断ります。かくして最澄は体得せんと愛弟子を空海の下に送り出すのです。

最澄は愛弟子が理趣教を体得できた頃に比叡山に帰って来るよう言います。しかし、愛弟子は高野山から比叡山に帰ることを拒みました。ここで、愛弟子を取られた最澄と空海の不仲が決定付けられるのです。

※理趣教とは

真言宗の主要経典。般若理趣分の類本で、不空訳、一巻。大日如来が金剛薩埵(さった)のために般若の理趣により、一切法が本来、自性清浄であることを説いたもの。男女の愛欲を肯定する思想を表わすことによって人間存在を全面的に肯定しようとした趣意が主体をなす
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 
理趣教は内容が内容だけに取扱注意のお経です。字面の如くの理解では真の解釈ができず、道を外す可能性が高いのです。それゆえ、長らく門外不出の経典となっておりました。
川崎大師の朝一番のお勤めの時には読経されています。若い住み込みのお坊さんが多く、初々しく清々しいそうです。

まとめ

「空海の生涯」を読みやすく面白くしているのは著者由良弥生の創造力の賜物と思います。弘法大師空海の寓話、難解な仏教用語を噛み砕き、描写する博学さは素晴らしいと存じます。生身の人間沙門空海はこのような人物だったのだろうと親しみを感じさせる一冊でした。

そして最澄との出会いと決別の深い意味が理解できるのも素晴らしいですね。